学生時代の悪しき習慣(?)
聞いていない人が悪い説
子供のころを思い出してみると、あることが鮮明に思い浮かびます。それは先生の言葉。「一度言ったことはきちんと守りなさい」。小・中・高を通じて、いったい何度この言葉を耳にしたでしょうか。何度も耳にしたという事は、一度言ったことをきちんと守れていなかったという事なのでしょう。
実はこれにはちょっとした矛盾があります。何かしらのルールを守らせたいのは先生であって、生徒ではありません。生徒は好き勝手やりたいのに、先生の都合(あるいは先生が意図する理由)で生徒は行動を制限されるわけです。そんなことを、普通は守るわけがありません。しかし、それは「先生」という権威を使って従わせよう、というのが学校における力学です。
生徒たちは、理由もなく従う、ということを学校で繰り返し学びます。これは会社で言えば、上司と部下の関係に近いでしょう。都合がいいので上司は、かつての先生の言葉を部下に向かって使います。部下は、殺生与奪権ともいえる人事権を握られている恐怖から、上司に逆らわないように気をつけます。
先生や上司の目を盗むという行為
こういう人たちは、先生や上司に言われて、その言葉が身に染みているわけでもなければ、人が変わったわけでもありません。ただ、言葉による圧力で、見た目の行動を変えているだけです。すると何が起こるかというと、誰も見ていないところでは、先生や上司の言いつけを守らないのです。そして、先生や上司の言いつけを破ることそのものが、ちょっとした楽しみになります。なぜかというと、それは自由を獲得することを意味するからです。
日頃から抑圧されている思いを、先生や上司のみていないところで発散する。これは一歩間違えると、非常に危ない状態と言えるかもしれません。
動いてほしい側の工夫
罰をつけなければ動かない!?
よく、経営者は「なぜか社員は、自分で考えようとしない」といいます。しかし考えても見てください。余計なことを言えば、会社での評価を下げるリスクがあったり、上司から叱られるリスクもあります。しかし、何も言わなくても何の罰則もありません。ほとんどの組織の中で、自分の意見を言うことはリスクで、黙っていることが一番安全な仕組みになっているのではないでしょうか。つまり、仕組みとして、社員が積極性を「持たない」仕組みが出来上がっているのです。
そんな折、高圧的に「意見を言え」とか「自分から動け」と言ってみたら、そこにクリエイティブな動きを期待できるでしょうか?たぶん、メンバーはみな、上司の顔色をうかがい、上司がもっている「答え」に合わせようと、必死になって答え探しを始めます。そこに個人の意見がはさまれる余地はありません。
動かしたい側が努力をせよ
少し話がそれたので元に戻しましょう。そんなリスクを負って働いている人たちは、常にリスクを避けようと思っています。そういった不調が社内にいきわたった時、例えば、上司が気まぐれに一回いった言葉を盲信することはけっこうなリスク。余計なことをやってしまいかねません。部下は上司の顔色をうかがいながら、「あの時の言葉は本気かな、ちがうかな」なんて言う風に判断しようとします。
そして二度と同じ指示がなければ「ああ、やっぱり気まぐれだったんだ。無視してよかった」と思うかもしれません。だから、上司は飽きるほど同じことを言い続けなければなりません。飽きるほど言い続けると、社員一人一人の心の中にその上司の言葉が刻み込まれます。そうなって初めて自主的に動き出す、という一面があるのです。
だからぜひ、動かしたいと思う人は、動かす工夫をしてください。動かない人が悪いのではなく、動かすことができない自分の無策を恥じてみる必要があるのではないでしょうか。
